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◇年間100冊読書日記◇趣味の読書の語り部屋

<『人はなぜ宗教を必要とするのか』阿満利麿>「自分は無宗教です」という主張の面白さが光る。【読書屋!】

どうも、こんにちは!

三度の飯より本が好き、アリガテンです。

 

 

今日はこれまた古本屋でぼやっとしてたらぼけっと手が伸びてしまった本を紹介します。阿満利麿『人はなぜ宗教を必要とするのか』

 

日本で暮らしていると宗教ってものがほんとうに歪んで見えてくるように思うことが多々ありますよね。みなさんも感じたことがあると思いますが。

 

盆で休んでハロウィンで騒いでクリスマスで浮足立って正月でまったりする。日本人の宗教観は世界的にも特異なものであることは間違いないでしょう。

 

個人的には、宗教から生じたものを日本流にイベント化しているだけなのでとやかく言うことは無いんですが、一つだけ昔から不思議に思うことがある。

 

 

それは、宗教という言葉自体がなんだかマイナスな意味を孕んで使われている気がするからだ。

 

「なんか宗教みたい」「え、宗教入ってるんですか」なんて言葉が不自然でない程度で耳に慣れている。

 

私個人の意見として、そこに疑問がある。

 

「なんか宗教みたい」と言う人には「え、何教に似てる?」って聞いてみたいし、「え、宗教入ってるんですか」なんて言う人には「まずは、海外に行ってみよう(*´ω`*)」なんて思っちゃう。かなり中立的に。

 

 

そう、私は宗教に中立的だと自分自身で思っているんだ。誰が何を信じていようが自由だと思うし。特定の宗教に帰依せず、中立的で無宗教だと思っていた。

 

 

ただ、この本を読んで気付かされたことがある。

 

それは無宗教であることの矛盾だ。

 

簡単にいうと、【「無宗教」教】という宗教観なのではないかということだ。

 

特定の宗教を信じないということは何か他の文化的な精神的支えのようなものがあり、それこそが日本人が育ててきた宗教なのだ。

 

筆者は宗教には2種類あると主張している。「自然宗教」「創唱宗教」の2つ。

 

自然宗教とは、特別な教えがあるというのではなく、一つの文化としての道徳やルール、習慣などが受け継がれていった形のものである。

 

一方、創唱宗教はいわゆる誰もが思う特定の宗教の形のことです。特定の教えがあったりお経を唱えたりするようなものです。

 

日本人の多くは前者の「自然宗教」を文化として持っているため、いくら無宗教と言っても宗教と同じ役割の精神的支えがあるという。

 

だが、その自然宗教は土地や先祖からの継いでいかれるものであった。

 

その地盤が揺らぐ現代において、無宗教者はまた新しい形の精神生活を形成しているのではないか。

 

自然宗教を文化として持っているからこそ「創唱宗教」が特異なものとして映るわけだ。

 

 

 

宗教にマイナスのイメージを持つ人ほど、宗教は科学的に証明できないと言う。

 

だが、筆者は科学と宗教はそもそも求めるものが異なると主張する。

 

 

"宗教と科学がぶつかる場合には、科学は科学の立場で、また、宗教は宗教の範囲において、それぞれが解決するように試みるべきだ"

 

 

 

ここに面白い論理がみえた。

 

【<「Aにあてはまらない」=「Aでない」>ではなく、Aの範囲外であるだけでAに適さないもの。だから、AではなくBの守備範囲なのではないか。】

 

これはありとあらゆるものに当てはまるように思う・

 

Aにあてはまらない=Aでないと短絡的に考え結論付けるケースが多いように思う。この論理を理解しておけば、このような短絡的な考えに陥らずより最適な解を得られるのではないだろうか。

 

 

宗教だからと敬遠するのもいいが、「敬遠教」から飛び出してみると面白い世界が見えるかもしれないですよ。